追悼 平林先生
本校元教諭、平林先生が亡くなられた。享年96歳。大往生と言えばそうだろうが、ご本人はまだまだやりたいことがあった様子。病気の影響で身体の自由がきかなくなり、もどかしさを感じていらしただろうが、元気になったらあれがしたい、これがしたい、とお考えだと聞いていたので、その思いが叶わずに逝ってしまったことは、残念でならない。
平林春樹先生は、定年まで桐朋女子中・高等学校で理科、生物の先生としてお務めになった。在職中からシダの研究を続けられ、大学から学位をいただいた。理学博士である。昨夏、その平林先生の博士論文を探してみた。平林先生と直接連絡を取ることができなかったので、残っている資料を探すことから始めた。
博士論文、簡単に見つかるかと思ったら、なかなか見つからない。学校の資料を何か見たら参考になりそうなことが載っているかと思ったが、いつもらったのか、どこの大学からいただいたのかさえ、見当たらない。そうか、これは学校の業務の一環ではなく、今で言う個人情報扱いなのかと思いあたった。なかなか見つからない中で、雑誌「桐朋教育」の古いものを探していたら、ある号の退職者を紹介するページで平林先生が退職された記事を見つけ、そこに博士号をいただいた年が書かれていた。昭和46年9月、50年以上前である。その記事には大学までは書かれていなかったが、おそらく東京教育大学ではないかと想像した。桐朋女子は、長い間、東京教育大学と今で言う連携関係にあったからである。ホームページで、そのいただいた年を手掛かりに調べてみると、予想通り、教育大だった。ではその論文はどこで見られるのだろう。東京教育大学という大学は既に改組され、筑波大学に生まれ変っている。筑波大学の図書館かと思い、ネットで検索してみたが、ヒットしない。同じ法人内の桐朋学園大学が発行している研究紀要の古い号に平林先生の論文が掲載されていることがわかり、見てみたが、博士論文ではなかった。さて、どこを探そうか。ネットには博士論文のタイトルは載っている。「日本産オシダ属の細胞地理学的研究」である。オシダとはシダの一種。細胞地理学とは?よくわからない。更にその博士論文に番号がついていることに気づき、それが国会図書館の整理番号だということに思いいたった。
国会図書館は、日本国内で発行されたすべての出版物を納入することが出版者に義務付けられているところで、国内の出版物を広く収集している。古い資料などの調べものをするにはうってつけの場所だ。国会図書館のホームページで検索したところ、平林先生の博士論文が見つかった。やっとたどりついた。国会図書館の資料の一部はネットでその内容が見られるようになっているが、この論文はそうはなっていないので、出かけるしかない。実物が見られるぞと楽しみに国会図書館に行ったところ、行ってみて私の調査不足が露呈した。実物は、東京ではなく関西館にあるという。あとで改めて国会図書館のホームページを見ると、確かに関西館所蔵と書いてあったが、気づかなかった。取り寄せてくれるそうなので、申し込み、また改めて行くことにした。そして一週間後、予定通り到着したと連絡があり、再び国会図書館に出かけた。カウンターで手にとった平林先生の博士論文は、金文字でタイトルが箔押しされ、ハードカバーの、実物だった。博士論文は、たくさん印刷して販売するようなものではない。数冊作って、関係が深いところに収めたのだろう。写真も本物を切り貼りしてあり、原稿はタイプ打ちだった。私が大学生だった昭和60年代、同じ研究室の先輩が論文を準備しているとき、やはりタイプ打ちだったことを思い出した。ワープロが普及したのは昭和から平成になる頃で、昭和46年当時はまだ存在していなかった。平林先生は一文字一文字思いを込めて打ったのだろうと、その論文を手にして感じた。貼り付けられた写真からも、平林先生の思いが伝わるようだ。
日本産オシダ属の細胞地理学的研究というタイトルから、内容は難しいだろうとは思いつつ少しでも読んでみようと思っていたのだが、すべて英文、それも専門用語があふれた英文である。これは簡単には読めそうにない。何とか英語を拾い読みすると、平林先生の研究はシダの染色体についてのようである。染色体の本数だろうか、41という数字がポイントになっているようで、その2倍である82、3倍である123という数字も見られが、素人には詳しいことはわからない。平林先生がなぜシダの染色体に興味を持たれたのか、そこもわからない。ご本人に聞いてみたかった。シダを追究した結果、博士号をいただくまで高みを上り詰めたわけである。昨年12月、高知の研究者が「平林先生の標本を見せて欲しい」と学校に訪ねてこられた。標本を手に取り、とてもうれしそうに見えた。標本が採集されてから数十年経っても、その価値は色あせない。
昨年、京セラの創業者である稲盛さんが亡くなった。経営者として慕われていて、数多くの言葉を残しているが、その一つに「もうダメだというときが仕事の始まり」という言葉がある。難しい課題に向き合うと、うまく解決できないことが多いが、そこでどのくらい粘れるかが、真価が問われるところ。平林先生の研究も順風満帆だったわけではないだろう。博士論文の背景には、数多くの失敗があったはず。人は失敗は語ろうとはしないが、みんな乗り越えてきているはずだ。
平林先生の訃報を高知の研究者にも伝えたところ、「ご冥福をお祈り申し上げます。平林先生は日本のシダ学に多大なる貢献をされました」というお返事をいただいた。まさにその通りだろう。
平林先生のご冥福をお祈りします。