校長コラム

学年色

 桐朋女子の特徴の一つに、学年色が挙げられる。6色がローテーションで回っており、今年の各学年の学年色は、下の通り。来年は学年色も1学年進級し、高3が赤、高2が青…となる。生徒は入学時から卒業まで同じ色で過ごすわけだ。今年の高3の学年色「黄色」は、来年の中学1年生に引き継がれ、新しい黄色の学年がスタートする。先日行った体育祭は、学年色を体感する学校行事の一つだ。

         2024年の学年色

 この学年色、実は謎が多い。①いつから始まったのか、②なぜこの6色なのか、はっきりした記録が残っていない。今春、少し調べてみた。結論を先に書くと、やはり解明できなかった。できなかったものの、わかったこともある。今回は、そのお話しである。

(1)学年色は、昭和25年には存在した。

    昭和25年の運動会のプリント

 上は、昭和25年の運動会のプリントを一部拡大したものである。このプリントは、今春見つけた。今は体育祭と呼んでいるが、当時は運動会と呼ばれていたようだ。そのプリントに「学年標色」と書かれて掲載されているのが、今の学年色であることは間違いない。ただし学年色の呼び方が今と異なる。今の「赤」は「紅」、今の「紫」は「藤」と表記されている。初期はこのような呼び方だったのかもしれない。そして「標色」という言葉、私は初めて目にした。大きい辞書で引いてみたが、記載されていない。「表色」ならば、美術の世界ではポピュラーなようだ。それを模したのだろうか。

(2)学年色は学校で決めたものではない?

 実は今春、昭和19年から昭和30年代前半にかけての職員会議の記録を見つけた。もう存在しないのかと思っていた1次資料を見つけ、震える思いであった。これを見たら何か書かれているだろうと、楽しみに見てみたが、昭和25年に至るまで、学年色については一言も記載されていない。ということは、学校で、少なくとも職員会議で決めたものではないのかもしれない。生徒が中心になって決めたのか。決めた母体はどこだろう?生徒の残した学級日誌などが見つかれば何か記載があるかもしれないが、それはまだ見つけられていない。

(3)学年色誕生時期 説1 昭和22年

 桐朋女子の創立は昭和16年、1941年である。最初は山水高等女学校として創立され、戦後、桐朋女子中学校・桐朋女子高等学校に変わった。昭和22年は、新制中学校の誕生した年で(高等学校はまだ誕生しない)、山水高等女学校の最初の3年間を桐朋第二中学校として再出発させた。高等女学校は5年制の学校なので、残る2年、4年生と5年生は高等女学校のままだったようだ。この桐朋出発時に合わせ、学年色が誕生し、1年生が黄色だったという記載が、創立50周年記念誌に書かれている。それ以前、創立40周年、30周年、20周年、10周年の際も記念誌が発行されているが、学年色についての記載はない。学年色については、50周年記念誌に掲載されるのが初めてだ。それも不思議である。創立20周年記念誌は歴史の先生が編纂されたそうで、創立時から戦後の混乱期を経て創立20年に至るまでの様子が、実際にそこにいて、横で見ていたようにリアルに記載されている。当時は、創立時の様子を知る先生がご存命で、記録の隙間を埋めることが出来たのだろう。学年色について記載がないのは、他の事項と意味合いが異なることを暗示しているのかもしれない。

(4)学年色誕生時期 説2 昭和23年

 これは、昭和22年に桐朋第二中学校に入学した方の記憶である。その方によると「学年色は私たちが中2のときにできた。当時は5学年だったので5色でよかった。翌年、6色目が必要になり、何色にするか、決めた」という。この方が中2に進級した昭和23年は、新制の高等学校が誕生し、学校名を「桐朋女子中学校・桐朋女子高等学校」と変更して再出発した年である。新制の中学校と高等学校が揃い、それを契機に新しい制度を生み出したというのも想像できる。そして昭和23年は過渡期で、高校3年生がいなかった。昭和22年はまだ高等女学校時代で、その最高学年である5年生は、昭和23年3月に全員卒業したからである。なので、昭和23年は5学年だったというのも筋が通る。しかもこの方の記憶によると「最初の5色は、お寺の五色幕を当てはめた」という。お寺の五色幕は、お寺の祭事などの際に張られるもので、ネットで検索するとすぐにヒットする。その5色は、赤・黄色・緑・紫・白である。この順に中1から当てはめた、という。そして翌年、青が誕生したようだ。これはかなり筋が通っているように思えるが、一つ辻褄が合わないのは、この説によれば昭和25年3月卒業の学年が白になってしまう。が、記録によるとそうではないようだ。学年色は、昭和26年3月卒業の学年の「紫」が最初のようなのである。

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(5)学年色誕生時期 説3 昭和25年

 これは、昭和19年から教員としてお務めだった方が、平成28年の新聞部の取材に対してお答えになった話である。記事には、「学年色を決めたのは、桐朋女子になってからである。各学年から代表が出て何色にするかを決めたという。最終的にはくじ引きになったと記憶しているという。最初は7期生が高校3年の時で、色は紫であった」と書かれている。(1)で示した昭和25年の運動会は、10月に行われている。10月までに学年「標色」が決められたのだろうか。まだ馴染んでいなかったので、プリントも書き間違えたのかもしれない。この先生に話を聞いてみたかったが、もう聞けないのは残念だ。

 

 長々と書いたが、決め手にかける状態である。歴史を残す難しさを痛感している。直近で言えば、コロナ禍における学校の対応を記録に残すこと。その時そのときで一所懸命対応してきたのは事実だが、未来の方が10年後に振り返った際に見てもわかるように、残しておきたい。

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