体育祭を終えて
このコラム欄、前回の更新からしばらく間隔が開いてしまいました。書くネタがなかったわけではなく、書きように悩んだ結果です。今回のテーマは、体育祭です。
本校の体育祭は、毎年、5月の第4水曜日に行っています。中1から高3まで6学年が合同で、学年対抗で行います。6学年が対等に競い、1位には〇点、2位には△点のように得点が入り、その合計点で競います。縦割りのクラス対抗ではないので、経験のある上級生が有利であることは事実ですが、何事も初めてと2回目では大きく違うものの、2回目、3回目と回数を重ねるに従い、経験の差は次第に縮まるものです。本校の体育祭には、100m走や走高跳のような一般的な競技もあれば、綱引きや玉入れのような小さい子でも経験のある競技、足の歴史という本校オリジナルの競技もあり、スポーツが得意な子もそうでない子も活躍の場があります。
今年は、3年ぶりに平時に近い形の体育祭を行うことができました。ここ2年間は、中学と高校に分け、時期も5月にはできずに9月や12月に移動し、密になる種目は実施しないなど、変則的なものでしたので、半数以上の在校生にとって、平時の体育祭は初めての経験でした。結果は総合優勝が高校2年、第2位が高校3年、第3位以下は学年順でした。全学年が同じスタートラインに立ち、順位に応じて得点を積み重ねていくシステムなので、順位が学年順にならないこともあり得るのですが、今回のように総合優勝が絡む番狂わせは、32年ぶりです。
体育祭は、生徒が中心になって運営します。教員にも係分担がありますが、用具の準備や選手の誘導などは生徒が率先して動きます。そしてその運営は高校2年生が中心になります。体育祭という大きな行事を運営するために、4月以降時間に追われるように準備を進めてきました。そのように忙しい中、総合優勝を勝ち取った高校2年は、賞賛に値します。
一方、最上級生の高校3年生にとって、体育祭で優勝できなかったことは、言葉に表せない悔しさを感じたことと思います。閉会式で高3が見せた涙は、皆の心に残りました。団体徒手や特別種目など、高3が優勝した種目では朝礼台でトロフィーを受け取り、その後皆に向けて話をしました。涙をこらえながら、または泣きながらの話でした。その話に込められた思いは、その場にいた皆の心に沁み渡ったのは間違いありません。結果は優勝に結びつかなかったものの、それに向けて注いだ努力は、財産になっているはずです。結果につながらなかったから意味がなかった、なんていうことは、あるはずがありません。
総合優勝が絡む番狂わせは32年ぶりと書きましたが、その4年前、36年前にも番狂わせが起こりました。そのとき高3だった方が、こんなメッセージを寄せてくれました。「最後の体育祭が良い思い出になるまでは、時間がかかることと思いますが、優勝を逃した経験者としては、それなりにキラキラした思い出になって行きます。私も、この年になっても、閉会式の日差しの量も自分の涙も昨日のことのように思い出せます」高校3年生が抱えている悔しさが昇華し、キラキラした思い出になることを祈らずにはいられません。
そして閉会式の最後、学園歌「光の歌」を、いつもは肩を組んで歌うのですが、今年は歌唱ができないので、皆で聴くことになってしました。スピーカーから光の歌が流れ始めると、経験のある高3は自然に肩を組み、続いて高2も肩を組み、それは下級生にも自然に波及しました。そしてそして、高3と高2の間にあった隙間が、両学年が共に歩み寄ることで埋まり、両学年が肩を組んだのです。会場にいた保護者から、拍手が起きました。ここ数年、中3と中2の順位が学年順にならないことが何回かあり、その両学年の隙間は光の歌になっても埋まらないことが多かったのですが、今回は両学年が歩み寄りました。お互いをたたえる気持ちが芽生えたのかもしれません。これも忘れられないシーンとなりました。
閉会式では校長挨拶があります。私にとって、高3と高2の順位が逆転することは想定していなかったので、こうなった場合の話の準備はしていませんでした。準備がない中でも気の利いたお話しができればよかったのですが、優勝に喜ぶ高2と涙にくれる高3を前にして、どのような話をすればよいのか、思いつきませんでした。力不足を感じました。32年前、高3が優勝できなかった年、私は高3のクラス担任をしていました。その日の帰りのホームルームで、うまく話ができなかったことは、今でも心残りです。今回、また心残りが増えてしまいました。
体育祭を終えて3週間あまり経ちました。その後、感染が広がることはなく、落ち着いています。桐朋を代表する学校行事を行うことができ、結果を一人ひとりが受け止め、先に進みます。紫陽花がきれいに咲いている、今日この頃です。