ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐってー(2)
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2023年12月28日投稿、同タイトル(1)の続きです。
初代「ゴジラ」は1954年3月1日のビキニ水爆実験と第五福竜丸被ばく事件に着想を得た香山滋の原作による作品です。映画の公開は現在「ゴジラの日」とされている同年11月3日でした(「ゴジラ -1.0」も70年後の同日)。実質7ケ月間の間にゼロベースからここまでの作品に仕立てた当時の映画人の働きぶりやスピード感には驚かされます。昨年の10月末に「1954 ゴジラ研究極本」(Hobby Japan)という読み応えのある書籍がでました。これは2014年に出版された「初代ゴジラ研究読本」(洋泉社)の加筆修正・再構成版ですが、将来の更なる補筆や修正のため、桐朋女子の教職員の立場だからこそ知りうる新情報を交えて紹介しましょう。いずれも校内に保存されている教務日誌や当時の学校新聞、アルバムなどを発掘して確認したものです。
上掲書には「平和への祈り」について、本校卒業生のSさん・Fさんというお二方の記憶に基づくインタビューがまとめられています。その内容を改めて検証してみます。
①歌っているのは中学高校の6学年全員、とありますが、教務日誌によると実際は高校生全員である、というのが事実です。昭和30年3月卒の第六回生から32年3月卒の第八回生(昭和11年度から13年度にお生まれの方々)となります。大講堂は2階席を有し、学園の案内に「京王沿線随一の大講堂」と書かれるほどの大きな木造の空間でした。戦中に建てられた大講堂は戦局悪化の折「贅沢すぎる」と批判もされていたようです。築50年後の1991年7月に老朽化により取り壊されて、跡地は教育研究所のセミナーハウスとポロニア館となっています。当時の高校生は卒業台帳から判断すると3学年合わせて600名ほどと推定されます。映像を見てもギッシリ2階席まで女子生徒が並んで埋まっているのは壮観です。
②着ている制服は夏服なので7月かまたは9月の撮影である、とありますが、実際は9月24日(金)の13:30から撮影が行われました。教務日誌に「午後一時半から東宝映画の撮影 講堂にて 高等科全員出演」と記録されています。この頃、現行の制服と昔の制服がモデルチェンジの移行期で新旧入り混じっていました。生徒は「夏服ならどちらでも可」と言われていたようです。当日はかなり蒸れるような暑い中で撮影が行われた、と先述の学校新聞の記事にありますが、気象庁データによると当日の東京の最高気温は29.5度でした。
③劇場公開の前に、同じ大講堂で暗幕を閉めて試写会が行われた、とありますが、おそらく公開直後の11月6日であることが教務日誌から伺えます。大講堂は戦後になって舞台の一部が改修され、映画を投影できるスクリーンや器材も常設され、学校ではしばしば映画会が行われていたとのことです。
④その場に伊福部昭(ゴジラ音楽担当)が来て指揮をしたが(また一説によれば小楽団を指揮してその場で演奏したとあるが)詳細は不明、とありますが、合唱自体は予め「洋声会」という20名ほどのコーラスグループで歌ったものを録音し、本校の大講堂でプレイバックしたフィルムを見ながら伊福部の指揮で実際に歌う「ポーズ」を撮った、というのが事実のようです。伊福部昭は日本の映画音楽の巨匠です。ゴジラの咆哮する声まで楽器で作り出すなど、ゴジラ音楽に多大な貢献をしましたが、オリジナル・サウンドトラックの演奏でタクトを振ることはなかったそうです。ちなみに演奏は東京交響楽団のコンサートマスターの黒柳守綱(黒柳徹子の父君)を始めとする40名ほどのオーケストラでした。伊福部昭は桐朋女子の撮影の時だけ、タクトを振ったとのこと(上掲書所収の助監督・所健二の回想による)。気分を上げるために「原爆を許すまじ」も歌ったと卒業生インタビューにあります。こうして一丸となった、気持ちのこもった合唱シーンが撮影・記録されたものと思います。
香山滋による原作(検討用台本)は完成台本まで四次にわたる改訂があります。白黒テレビを通して大人数の本校生徒が歌う「平和への祈り」の場面は、演出上の理由で加えられた可能性が高いと考えています。テレビ放送が始まったのがゴジラの前年の1953年。当時は東京タワーがなく、NHKは平河町に自局専用のテレビ塔を持っていました。ゴジラが東京を破壊する様子を放送記者が塔の上から決死の中継をし、最後はもろとも破壊されてしまう有名な場面がありますが、テレビ塔破壊後に「平和への祈り」のテレビ中継、というのは脚本の整合性を考えると不自然です。さらに完成映画の男性アナウンサーのナレーション部分は台本には存在しません。本編の撮影スケジュール表が上掲書には収められていますが「合唱」シーンは8月28日にロケではなくセットでと書かれています。表は9月18日で終わっています。9月24日の撮影ということは、重要な場面であるにもかかわらず、劇場公開まで残り1ケ月余りという差し迫った状況下でおこなわれたことを意味します。台本完成以降も実際の撮影と編集の過程で修正が加わる中、「合唱」シーンはギリギリのタイミング(学校側の事情も考えられます)で表にはないロケの形で実現しました。その結果「いのち込めて歌う処女たちの歌声」は大人数の女子生徒の映像を伴う形となって一層のインパクトが生まれ、劇中の芹沢博士の気持ちを動かすことにもなりました。なお、当時の東宝の撮影所は世田谷区砧にあり、桐朋女子は近隣の調布市の女子高校であり、大講堂を持っていたこともあって白羽の矢が当たったものと推察します(学校が撮影を受け入れた事情についての記録、残念ながら未発掘です。調査中)。
映画の中の白黒テレビに関連して補足します。1953年開局当時のNHKのテレビ受信契約数は900にも満たないものでした。そんな稀少で高価な白黒テレビを前提とした場面設定には、製作当時のモダニズムのありかを伺うこともできます。朝鮮特需を経た神武景気は1953年から始まり、その後の1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記、その間「三種の神器」(白黒テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機)の筆頭だった白黒テレビも当初は街頭テレビが主流でした。やがて総合家電メーカーの参入で量産化、低廉化が進み、1958年の東京タワー竣工とご成婚ブーム以後に爆発的に普及したとのことです(Wikipedia「三種の神器」)。初代「ゴジラ」は敗戦後9年で未だ戦争の記憶の生々しい只中の作品ですが、同時に高度経済成長の開始期に作られた作品でもありました。先述の本校制服のモデルチェンジも、そんな新しい時代の予兆を背景に行われたものと考えます。
ゴジラは70年の歳月を経て世界中で知られる普遍的存在となり、今や高校地歴科の新科目「歴史総合」の教材にまでなっています。一連のゴジラ作品の栄えある第一作に桐朋女子が奇しくも関わることとなったご縁を、私たちは平和を希求する強い思いと共に忘れてはならないと思います。以上、初代「ゴジラ」の「平和への祈り」に関連して、桐朋女子の歴史とその周辺を深堀してみました。当時の600名の高校生は例外なく子ども期に戦争を体験した方々です。親しいお身内を戦争で喪った人も多くいたことでしょう。桐朋女子の前身、山水高等女学校は陸海軍の軍人や軍属の子女が多く在籍していただけになおさらです。当時の桐朋生の合唱場面から伝わる「何か」の背景に思いを巡らせながら、昭和29(1954)年の初代「ゴジラ」と、令和5年(2023)年の最新の「ゴジラ-1.0」を併せてご覧いただくと、両映画に共通する「いのち」への思いが、より一層こころに響くものと思います。
最後に。現在も情報を集めています。新事実や新資料などご存じでしたら、ぜひ桐朋教育研究所(担当:飯島)までお知らせください。どうぞよろしくお願いします。(完)
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