桐朋女子ピックアップ一覧
東部公民館の文化祭で企画や展示の発表をします。
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2024年度桐朋祭ー琥珀ー
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桐朋からパリ五輪に!
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体育祭が終わりました
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5月22日(水) 爽やかな気候の中、体育祭本選が行われました。
初めての体育祭を心から楽しんだ中1緑(玉入れ4位はお見事!)
応援交歓や団体徒手を自分達で創り上げる大変さを知った中2紫(応援席の盛り上がりが凄かった!)
とにかく足が速くトラック種目で優勝をかっさらった中3白(応援交歓、成長しました!)
昨年度から強かったフィールド種目で優勝した高1青(応援交歓、今年もビシッと揃いました!)
熱い闘志で最後まで先輩たちを脅かした高2赤(体育祭の運営お疲れ様でした!)
そして、最後まで諦めずに戦い抜き、堂々と総合優勝を果たした高3黄色!
意地とプライドを見せてくれました!おめでとう!
どの学年も本当によく頑張りました!
Cブロックの応援交歓は、斬新な振り付けや構成で、独創性と企画・演出力を感じる素晴らしい演技でした。
朝早くから多くの保護者の方や卒業生にご来校いただき、熱いご声援をいただきましたこと、厚く御礼申し上げます。
最終得点結果
当日の学年黒板、受付、高3の垂れ幕、開会式、「桐朋愛」掲示板…
黄色が走る!跳ぶ!引く!投げる!
当日の写真はまだまだあります。後日、本校HPの「体育祭ギャラリー」にアップいたしますので、ぜひご覧ください。
2024年度 体育祭得点速報
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体育祭 予行・予選
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5月21日(火) 晴れ渡る空の下、体育祭の予行・予選が行われました。
音楽部音楽班のファンファーレで幕が開け、力強い生演奏と放送部のアナウンスで入場行進、開会式では大会旗の掲揚や選手宣誓なども行われ、グラウンドが高揚感に包まれました。
800m障害リレー、桐朋リレー、足の歴史、800mリレーは、予行とは思えない大激闘と大歓声。ルールの最終確認では、明日の本番で失格にならないように監察の先生方の注意を真剣な眼差しで聞きました。
綱引きは今日の予選によって明日の組み合わせが決まりました。
玉入れは今日が本選1日目となり、他の競技に先立って熱戦が繰り広げられました。
※綱引きと玉入れの結果は「ニュース」の方にアップされています。
午後は団体徒手の公開リハーサル、どの学年も上々の仕上がりのようです。
応援交歓も最後の仕上げ。中1緑の元気な歌声が聴こえています。
明日は晴れ予報。どの学年も、これまでの練習の成果を発揮できますように。
「帰国生のための海外学校説明会&相談会」に参加しています
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「モノ・マガジン」2024年5-16号(5月2日発売)に桐朋女子中・高等学校が紹介されます
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津田塾大学と高大連携協定を締結しました
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3月13日(水)、津田塾大学において、桐朋女子中・高等学校は津田塾大学(学長:髙橋裕子/東京都小平市)と高大連携に関する協定を締結しました。本協定に基づき、両校はお互いが求める学生像および教育内容への理解を深め、両校の発展を図ってまいります。
締結式には、津田塾大学より髙橋学長、小舘副学長、早川副学長、斉藤事務局長、五十嵐経営企画課長そして同課伊藤さんが出席され、桐朋女子からは校長と進路指導部主任が出席しました。締結式では、協定書への署名、写真撮影の後、和やかな雰囲気の中で意見交換等を行い、最後に学校内をご案内いただきました。緑が多い落ち着いたキャンパスで、キャンパスの最深部には創立者の津田梅子先生のお墓もあり、お参りしてきました。
今後、両校でできることを模索し、進めていければと考えています。
これにより、先に協定を結んでいた東京女子大学、日本女子大学、国立電気通信大学を含め、4大学と連携協定を結んだことになります。
ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子―「平和への祈り」をめぐってー補遺(2)
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2024年3月12日投稿、同タイトル補遺(1)以後の続きです。
年末年始の記事をご覧いただいた方々から幾つか反応を頂いています。本校の先輩教員である村田洋先生(元中高社会科教諭)からも情報提供を頂きました。この機に最新のUHD Blu-ray『ゴジラ』(初代)をご覧いただいてのご指摘ですが、シネフィルにして大講堂を知る先生ならではの知見が含まれます。補遺にふさわしい情報なので、村田先生のご了解のもと、以下に紹介します。
「平和への祈り」のシーンを解読する
①『ゴジラ』に「桐朋のクレジット」は出てきません。キャストやスタッフや協力者を網羅する現在のエンドクレジットの時代ではなかったということでしょう。
②大講堂のコーラスは、歌い始めではカメラを演壇上の下手に据えて、講堂内の一・二階の生徒の全景をとらえています。歌の途中で、一階下手側の床に降りているカメラが前から奥方向に移動撮影し、また演壇上のカットに戻ります。
③一階の生徒は一列20人で16列(画面の外に3列ほどはありそうなので、19列)、二階席は横45人程の列が4列並んでいます。これで合計560人ほどになります。
補足します。ご指摘にある同定人数ですが、卒業生名簿から推定される当時の在籍者数から当日の教務日誌に記録されている欠席者数を引いた人数とほぼ一致しています。これにより、560人から570人強という人数の合唱場面、と確定できます。巷に流れる様々な数字上の誤りをここで最終的に正しておきます。
④特典に「スタッフのインタビュー」があり、2000年11月の録画です。円谷英二(特技監督)、田中友幸(製作)、本田猪四郎(監督)、三縄一郎(録音)各氏がそれぞれのお仕事について語っていますが、伊福部氏は、合唱場面に関わることでは、概略次のように語っています。
a)桐朋音楽大学がやってくれるとなって、100名くらい使ってやりました。(注:→誤り)
b)お礼に鉛筆一本ということだったんじゃないかな。(注:→真偽不明)
c)たくさんで歌わないと悲劇の大きさがね、悲しいだけでは困ってしまうので、死んでもやってゆくという情感がないと困るので—。
d)学生全部使っていい、ということでそこ(学校)まで行ったのを覚えている。
e)(学生は)譜が読める人たちですから、すぐできました。(注:→誤り)
1914年生まれの作曲家は、インタビュー時は85歳の高齢で、加えて46年前の桐朋ロケの懐古なので勘違いも避けられません。この人は東京音楽大学長を務めた方ですから、「桐朋」と聞けば、「桐朋音大」と反射的に想起するのは当然かと思います。「(学生なので)譜が読めますから、すぐできました」とは思えません。普通科の生徒があらかじめ楽譜が渡されていて練習を終えていたのではないかと想像します。当時の桐朋生なら一時間ほどでできたでしょうし、とりわけ難しいことではなかったでしょう。昔の桐朋生はともかく合唱が好きだったようです。私はこのロケから15年後に桐朋にきたわけですが、初めて東北旅行を引率した時は、バス移動中はコーラスの場でもありました。旅行委員の他に、歌集委員がおり、歌集作りは大切な分担になっていました。今も同じでしょうか。
以下、補足します。当時の教務日誌を精査したところ、撮影に先立つ9月10日「第5限、高等科全生徒「平和の歌」を練習、講堂にて」とあり、事前の練習があったことが判明しました。昭和29年度の夏休み明け初日は9月6日でした。10月からは修学旅行、小旅行(遠足)、体育祭、文化祭といった行事が目白押しで、さぞや準備がたいへんだったかと推察されます。改めて、どのような形でロケ協力が実現したのか、知りたいところです。
桐朋女子高等学校音楽科の開校は昭和27(1952)年、第一期生の故 小澤征爾氏(音楽部門同窓会名誉会長、2月6日にご逝去)は当時、高校3年生でした。伊福部昭が桐朋に足を運んだのも開学したばかりの音楽科高校への関心があったからかもしれません。
ゴジラの襲撃による多くの負傷者が街中の地面に横たえられ治療を受けているシーンが続きますが、これは広島・長崎の原爆情景のティピカルなオマージュと私は受け取りました。原爆写真のほとんどはモノクロで、かつ「地面に横たわる」死者や負傷者が多数映っていますから、観客の少なからぬ人々が、まだ10年も経っていない原爆風景を思い出すのは当然です。
「平和への祈り」の合唱場面が、上記シーンと重なって展開することの映画史的な意義を改めてかみしめたいと思います。「戦争がなくならない限り、ゴジラは死なない」。山崎貴監督があるインタビューで語っていた言葉です。70年の時を超えた「平和への祈り」について、いつまでも語り継いでゆくことは、桐朋女子に身を置く者の大切な仕事です。




