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ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子―「平和への祈り」をめぐってー補遺(2)
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2024年3月12日投稿、同タイトル補遺(1)以後の続きです。
年末年始の記事をご覧いただいた方々から幾つか反応を頂いています。本校の先輩教員である村田洋先生(元中高社会科教諭)からも情報提供を頂きました。この機に最新のUHD Blu-ray『ゴジラ』(初代)をご覧いただいてのご指摘ですが、シネフィルにして大講堂を知る先生ならではの知見が含まれます。補遺にふさわしい情報なので、村田先生のご了解のもと、以下に紹介します。
「平和への祈り」のシーンを解読する
①『ゴジラ』に「桐朋のクレジット」は出てきません。キャストやスタッフや協力者を網羅する現在のエンドクレジットの時代ではなかったということでしょう。
②大講堂のコーラスは、歌い始めではカメラを演壇上の下手に据えて、講堂内の一・二階の生徒の全景をとらえています。歌の途中で、一階下手側の床に降りているカメラが前から奥方向に移動撮影し、また演壇上のカットに戻ります。
③一階の生徒は一列20人で16列(画面の外に3列ほどはありそうなので、19列)、二階席は横45人程の列が4列並んでいます。これで合計560人ほどになります。
補足します。ご指摘にある同定人数ですが、卒業生名簿から推定される当時の在籍者数から当日の教務日誌に記録されている欠席者数を引いた人数とほぼ一致しています。これにより、560人から570人強という人数の合唱場面、と確定できます。巷に流れる様々な数字上の誤りをここで最終的に正しておきます。
④特典に「スタッフのインタビュー」があり、2000年11月の録画です。円谷英二(特技監督)、田中友幸(製作)、本田猪四郎(監督)、三縄一郎(録音)各氏がそれぞれのお仕事について語っていますが、伊福部氏は、合唱場面に関わることでは、概略次のように語っています。
a)桐朋音楽大学がやってくれるとなって、100名くらい使ってやりました。(注:→誤り)
b)お礼に鉛筆一本ということだったんじゃないかな。(注:→真偽不明)
c)たくさんで歌わないと悲劇の大きさがね、悲しいだけでは困ってしまうので、死んでもやってゆくという情感がないと困るので—。
d)学生全部使っていい、ということでそこ(学校)まで行ったのを覚えている。
e)(学生は)譜が読める人たちですから、すぐできました。(注:→誤り)
1914年生まれの作曲家は、インタビュー時は85歳の高齢で、加えて46年前の桐朋ロケの懐古なので勘違いも避けられません。この人は東京音楽大学長を務めた方ですから、「桐朋」と聞けば、「桐朋音大」と反射的に想起するのは当然かと思います。「(学生なので)譜が読めますから、すぐできました」とは思えません。普通科の生徒があらかじめ楽譜が渡されていて練習を終えていたのではないかと想像します。当時の桐朋生なら一時間ほどでできたでしょうし、とりわけ難しいことではなかったでしょう。昔の桐朋生はともかく合唱が好きだったようです。私はこのロケから15年後に桐朋にきたわけですが、初めて東北旅行を引率した時は、バス移動中はコーラスの場でもありました。旅行委員の他に、歌集委員がおり、歌集作りは大切な分担になっていました。今も同じでしょうか。
以下、補足します。当時の教務日誌を精査したところ、撮影に先立つ9月10日「第5限、高等科全生徒「平和の歌」を練習、講堂にて」とあり、事前の練習があったことが判明しました。昭和29年度の夏休み明け初日は9月6日でした。10月からは修学旅行、小旅行(遠足)、体育祭、文化祭といった行事が目白押しで、さぞや準備がたいへんだったかと推察されます。改めて、どのような形でロケ協力が実現したのか、知りたいところです。
桐朋女子高等学校音楽科の開校は昭和27(1952)年、第一期生の故 小澤征爾氏(音楽部門同窓会名誉会長、2月6日にご逝去)は当時、高校3年生でした。伊福部昭が桐朋に足を運んだのも開学したばかりの音楽科高校への関心があったからかもしれません。
ゴジラの襲撃による多くの負傷者が街中の地面に横たえられ治療を受けているシーンが続きますが、これは広島・長崎の原爆情景のティピカルなオマージュと私は受け取りました。原爆写真のほとんどはモノクロで、かつ「地面に横たわる」死者や負傷者が多数映っていますから、観客の少なからぬ人々が、まだ10年も経っていない原爆風景を思い出すのは当然です。
「平和への祈り」の合唱場面が、上記シーンと重なって展開することの映画史的な意義を改めてかみしめたいと思います。「戦争がなくならない限り、ゴジラは死なない」。山崎貴監督があるインタビューで語っていた言葉です。70年の時を超えた「平和への祈り」について、いつまでも語り継いでゆくことは、桐朋女子に身を置く者の大切な仕事です。
ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子―「平和への祈り」をめぐってー補遺(1)
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2024年1月6日投稿、同タイトル(2)以後の補遺編です。
3月11日、東日本大震災(津波被害と福島の原発事故)から13年目の日の朝、山崎貴監督『ゴジラ―1.0』が米アカデミー賞視覚効果賞を受賞との朗報が届きました。日本の市民が決して忘れてならない日の受賞、初代『ゴジラ』の円谷特撮チームに相当するVFX担当の白組スタジオが桐朋女子と同じ調布市内にあること、先にご紹介した70年前のゴジラと桐朋女子の不思議なご縁などを併せて、その後判明した新情報を「補遺」として、2回に分けてご紹介いたします。
歴史の偶然と必然:第五福竜丸の犠牲と洞爺丸事故の狭間で
以前抜粋で紹介した撮影当日にまつわる学校新聞の記事全文です。
校内トピックス・ゴジラ撮影行わる:去る九月二十四日、午後1時から本校講堂に於て、全高等部生徒出演によって、東宝映画『ゴジラ』の撮影が行われた。これはゴジラをして水爆の恐ろしさを広く知らせる風刺映画であるとの解説の後、撮影にかかった。本校生徒出演は人々の永遠の平和への願いを女学生が“平和の歌”にたくして合唱する部分であり、又初めてのことであるので、むれるような暑さの講堂は、終始緊張した空気でみちていた。四カットの撮影は約二時間で成功に終わった模様。終了後、各体育班に記念品として、優勝槍が贈られた。なお近いうちに本校で、東宝映画写会が開かれる予定である。
昭和29年10月13日「山みず」第34号(3面)
当ロケ撮影の前日にあたる9月23日18時過ぎ、ビキニ環礁の水爆実験で被ばくした第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが再生不良性貧血の治療過程で生じた危篤症状の末、亡くなりました。1945年の広島・長崎の原爆被害はGHQ統治下の「不都合な真実」であり、必ずしも多くの情報が開示されていませんでしたが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、その惨状がようやく日本全体に共有されるようになっていました。そうした中で、8月末から容体が悪化していた久保山さんの病状は新聞やラジオを通じて日々報じられる国民的関心事となっていました。久保山愛吉さんの死は、原爆のみならず水爆でも日本人が犠牲となった、という意味で衝撃的なものでした。その日は「秋分の日」のために翌朝の新聞は休刊日でしたが、号外で大きく報じられました。テレビ放送がほとんど普及していない中、当時の多くの人たちはラジオを通じて、このニュースを承知していたはずです(※)。映画の合唱シーンに記録された本校生徒たちの、思いつめたような表情の背景に、こうした出来事があったことは特筆しておきたい事実です。若い感受性がとらえた心の内実を具体的に再現することはできません。しかし、この悲劇の前後にご遺族の久保山家には全国から3000通以上の中高生をはじめとする見舞や追悼の手紙が届いたといいます。それらは現在、江東区夢の島にある都立第五福竜丸展示館に寄贈されて整理・保存されており(*)、「感情の歴史学」の視点からの「記憶の解凍」を待っています。映画中の犠牲者やゴジラの死を悼む「平和への祈り」は、久保山愛吉さんの悲劇的な死へのレクイエムのように重ねて聞こえてなりません。
もう一点、彼岸過ぎにも関わらず「むれるような暑さの講堂」で「終始緊張した空気でみちて」撮影されたとあり、この日の東京の最高気温が29.5度であったことは先般ご紹介しました。この蒸し暑さの要因は、日本列島を縦に北上中の台風15号によるものでした。この強風と早いスピードを特徴とする台風は、26日に青函連絡船「洞爺丸」沈没(1155名が死亡、日本の海難事故史上最大、世界でも1912年のタイタニック号沈没に次ぐ海難事故)など甚大な被害をもたらした自然災害として、歴史に名を残しています。偶然とはいえ、これもまた歴史の奇縁を覚えずにいられないエピソードです。歴史の偶然と必然を考えさせられます。
マンハッタン計画始動(日米開戦の翌1942年、オッペンハイマーらが従事)を起点として、核と人類の関係をタイムライン化するならば、数々の節目が現時点まで認められます。広島・長崎の原爆投下、水爆実験に伴うビキニ事件と第五福竜丸被ばく、核軍拡とキューバ危機、NPTとその破綻など核兵器にまつわるものもあれば、「平和利用」に伴う諸問題、スリーマイル島・チョルノービリ・福島の原発事故災害や核廃棄物処理問題などもあります。2024年は「世界終末時計」が1947年以来史上最短の90秒前を指していると報道にありました。ビキニ事件70年目の節目の早春、『オッペンハイマー』と共に『ゴジラ-1.0』が国際的な映画賞で話題となることの意味とは何か、これからの地球を私たちは「どう生きるか」を、1954年初代『ゴジラ』の「平和への祈り」が問いかけているようです。
注:(※)(*)は第五福竜丸展示館学芸員の市田真理様からご教示頂いたものです。
東京都中学校スキー大会に出場しました
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1/5~6に長野県よませ温泉スキー場にて第36回東京都中学校スキー大会が行われ、本校から2名が参加しました。回転では中学3年生が3位に入り、全国大会出場を決めました。また、学校対抗では昨年に続き女子総合優勝を果たし、2連覇となりました。
全国大会は2/6~9に野沢温泉スキー場で行われます。応援よろしくお願いします。
ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐってー(2)
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2023年12月28日投稿、同タイトル(1)の続きです。
初代「ゴジラ」は1954年3月1日のビキニ水爆実験と第五福竜丸被ばく事件に着想を得た香山滋の原作による作品です。映画の公開は現在「ゴジラの日」とされている同年11月3日でした(「ゴジラ -1.0」も70年後の同日)。実質7ケ月間の間にゼロベースからここまでの作品に仕立てた当時の映画人の働きぶりやスピード感には驚かされます。昨年の10月末に「1954 ゴジラ研究極本」(Hobby Japan)という読み応えのある書籍がでました。これは2014年に出版された「初代ゴジラ研究読本」(洋泉社)の加筆修正・再構成版ですが、将来の更なる補筆や修正のため、桐朋女子の教職員の立場だからこそ知りうる新情報を交えて紹介しましょう。いずれも校内に保存されている教務日誌や当時の学校新聞、アルバムなどを発掘して確認したものです。
上掲書には「平和への祈り」について、本校卒業生のSさん・Fさんというお二方の記憶に基づくインタビューがまとめられています。その内容を改めて検証してみます。
①歌っているのは中学高校の6学年全員、とありますが、教務日誌によると実際は高校生全員である、というのが事実です。昭和30年3月卒の第六回生から32年3月卒の第八回生(昭和11年度から13年度にお生まれの方々)となります。大講堂は2階席を有し、学園の案内に「京王沿線随一の大講堂」と書かれるほどの大きな木造の空間でした。戦中に建てられた大講堂は戦局悪化の折「贅沢すぎる」と批判もされていたようです。築50年後の1991年7月に老朽化により取り壊されて、跡地は教育研究所のセミナーハウスとポロニア館となっています。当時の高校生は卒業台帳から判断すると3学年合わせて600名ほどと推定されます。映像を見てもギッシリ2階席まで女子生徒が並んで埋まっているのは壮観です。
②着ている制服は夏服なので7月かまたは9月の撮影である、とありますが、実際は9月24日(金)の13:30から撮影が行われました。教務日誌に「午後一時半から東宝映画の撮影 講堂にて 高等科全員出演」と記録されています。この頃、現行の制服と昔の制服がモデルチェンジの移行期で新旧入り混じっていました。生徒は「夏服ならどちらでも可」と言われていたようです。当日はかなり蒸れるような暑い中で撮影が行われた、と先述の学校新聞の記事にありますが、気象庁データによると当日の東京の最高気温は29.5度でした。
③劇場公開の前に、同じ大講堂で暗幕を閉めて試写会が行われた、とありますが、おそらく公開直後の11月6日であることが教務日誌から伺えます。大講堂は戦後になって舞台の一部が改修され、映画を投影できるスクリーンや器材も常設され、学校ではしばしば映画会が行われていたとのことです。
④その場に伊福部昭(ゴジラ音楽担当)が来て指揮をしたが(また一説によれば小楽団を指揮してその場で演奏したとあるが)詳細は不明、とありますが、合唱自体は予め「洋声会」という20名ほどのコーラスグループで歌ったものを録音し、本校の大講堂でプレイバックしたフィルムを見ながら伊福部の指揮で実際に歌う「ポーズ」を撮った、というのが事実のようです。伊福部昭は日本の映画音楽の巨匠です。ゴジラの咆哮する声まで楽器で作り出すなど、ゴジラ音楽に多大な貢献をしましたが、オリジナル・サウンドトラックの演奏でタクトを振ることはなかったそうです。ちなみに演奏は東京交響楽団のコンサートマスターの黒柳守綱(黒柳徹子の父君)を始めとする40名ほどのオーケストラでした。伊福部昭は桐朋女子の撮影の時だけ、タクトを振ったとのこと(上掲書所収の助監督・所健二の回想による)。気分を上げるために「原爆を許すまじ」も歌ったと卒業生インタビューにあります。こうして一丸となった、気持ちのこもった合唱シーンが撮影・記録されたものと思います。
香山滋による原作(検討用台本)は完成台本まで四次にわたる改訂があります。白黒テレビを通して大人数の本校生徒が歌う「平和への祈り」の場面は、演出上の理由で加えられた可能性が高いと考えています。テレビ放送が始まったのがゴジラの前年の1953年。当時は東京タワーがなく、NHKは平河町に自局専用のテレビ塔を持っていました。ゴジラが東京を破壊する様子を放送記者が塔の上から決死の中継をし、最後はもろとも破壊されてしまう有名な場面がありますが、テレビ塔破壊後に「平和への祈り」のテレビ中継、というのは脚本の整合性を考えると不自然です。さらに完成映画の男性アナウンサーのナレーション部分は台本には存在しません。本編の撮影スケジュール表が上掲書には収められていますが「合唱」シーンは8月28日にロケではなくセットでと書かれています。表は9月18日で終わっています。9月24日の撮影ということは、重要な場面であるにもかかわらず、劇場公開まで残り1ケ月余りという差し迫った状況下でおこなわれたことを意味します。台本完成以降も実際の撮影と編集の過程で修正が加わる中、「合唱」シーンはギリギリのタイミング(学校側の事情も考えられます)で表にはないロケの形で実現しました。その結果「いのち込めて歌う処女たちの歌声」は大人数の女子生徒の映像を伴う形となって一層のインパクトが生まれ、劇中の芹沢博士の気持ちを動かすことにもなりました。なお、当時の東宝の撮影所は世田谷区砧にあり、桐朋女子は近隣の調布市の女子高校であり、大講堂を持っていたこともあって白羽の矢が当たったものと推察します(学校が撮影を受け入れた事情についての記録、残念ながら未発掘です。調査中)。
映画の中の白黒テレビに関連して補足します。1953年開局当時のNHKのテレビ受信契約数は900にも満たないものでした。そんな稀少で高価な白黒テレビを前提とした場面設定には、製作当時のモダニズムのありかを伺うこともできます。朝鮮特需を経た神武景気は1953年から始まり、その後の1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記、その間「三種の神器」(白黒テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機)の筆頭だった白黒テレビも当初は街頭テレビが主流でした。やがて総合家電メーカーの参入で量産化、低廉化が進み、1958年の東京タワー竣工とご成婚ブーム以後に爆発的に普及したとのことです(Wikipedia「三種の神器」)。初代「ゴジラ」は敗戦後9年で未だ戦争の記憶の生々しい只中の作品ですが、同時に高度経済成長の開始期に作られた作品でもありました。先述の本校制服のモデルチェンジも、そんな新しい時代の予兆を背景に行われたものと考えます。
ゴジラは70年の歳月を経て世界中で知られる普遍的存在となり、今や高校地歴科の新科目「歴史総合」の教材にまでなっています。一連のゴジラ作品の栄えある第一作に桐朋女子が奇しくも関わることとなったご縁を、私たちは平和を希求する強い思いと共に忘れてはならないと思います。以上、初代「ゴジラ」の「平和への祈り」に関連して、桐朋女子の歴史とその周辺を深堀してみました。当時の600名の高校生は例外なく子ども期に戦争を体験した方々です。親しいお身内を戦争で喪った人も多くいたことでしょう。桐朋女子の前身、山水高等女学校は陸海軍の軍人や軍属の子女が多く在籍していただけになおさらです。当時の桐朋生の合唱場面から伝わる「何か」の背景に思いを巡らせながら、昭和29(1954)年の初代「ゴジラ」と、令和5年(2023)年の最新の「ゴジラ-1.0」を併せてご覧いただくと、両映画に共通する「いのち」への思いが、より一層こころに響くものと思います。
最後に。現在も情報を集めています。新事実や新資料などご存じでしたら、ぜひ桐朋教育研究所(担当:飯島)までお知らせください。どうぞよろしくお願いします。(完)
(問い合わせ先:03-3300-2119 n-iijima@toho.ac.jp)
ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子 ―「平和への祈り」をめぐってー(1)
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現在公開中の東宝映画「ゴジラ-1.0」が世界的に大ヒット中です。昭和29年の「ゴジラ」から70年、国内実写版30作品目のこのアニバーサリー映画、全米に続き全英でも興行成績No.1を記録、勢いは衰えずと報道にありました。VFX特撮技術の凄さもさることながら、心を揺さぶる人間ドラマの部分も素晴らしく、「いのちへのリスペクト」という普遍的価値を礎に据えた作品です。この映画の評判が人々の口コミ(SNS等)によって広がっている事実も嬉しいことです。困難な時代に於けるささやかな希望を感じます。
先日、モノクロ版「ゴジラ-1.0/C」が新年1月12日から公開、と発表されました。明らかに白黒映画の初代「ゴジラ」へのオマージュですが、これを機に、桐朋女子と初代「ゴジラ」についての不思議なご縁を2回に分けて、概要と初公開情報のいくつかを紹介します。
冷戦下の1954年、アメリカによるビキニ環礁での最初の水爆実験や第五福竜丸被ばく事件を背景に製作された初代「ゴジラ」は、特撮担当(特殊技術:円谷英二)と本編担当(監督:本多猪四郎)がそれぞれ別々に撮影、統合して生まれた、特撮怪獣映画の金字塔です。同時に強い社会メッセージを世に問う戦後日本の象徴的作品として、今や誰もが知る存在です。
映画の後半部、自らが発明した水中酸素破壊装置「オキシジェン・デストロイヤー」をゴジラ退治のために使うことを依頼された芹沢博士が、科学者の良心から拒絶するシーンがあります。その時、博士の実験室に置かれた白黒テレビの画面に、ゴジラに破壊された東京の悲惨な光景が映し出されます(本多監督は9年前の広島・長崎と東京大空襲をイメージした、といわれています)。男性アナウンサーの声「本日全国一斉に行われました平和への祈り、これは東京から送られるその一齣であります。しばらくはいのち込めて歌う処女たちの歌声をお聞きください」と前後して、大勢の女子生徒たちが厳かに合唱する映像が歌声と共に流れます。
「〽やすらぎ(平和)よ ひかり(太陽)よ とくかえれかし いのちこめて
いのるわれらの このひとふしの あわれにめでて
やすらぎよ ひかりよ とくかえれかし 嗚呼」 (映画より採録)
惨状の映像と祈りの歌に深く心動かされた博士は、ある決意のもとに恐ろしい装置を使うことを決意する、という展開です。この合唱は映画の終幕場面でも流れ、水爆実験が呼び覚ましたゴジラの死へのレクイエムの趣があります。「平和への祈り(Prayer for Peace)」のタイトルでオリジナル・サウンドトラックに収録されています。
この重要なシーンに出演したのが今から70年前の桐朋女子の生徒たちです。撮影場所は「大講堂」と呼んでいた仙川の旧講堂でした。当時の桐朋生たちが大講堂で「平和への祈り」を歌う場面は、その後今日に至るまでゴジラが反核・反戦・平和を希う人々の逆説的なアイコンとなることを運命づけた、という意味で、世界の映画史上の決定的瞬間ともいえます。
当時の学校新聞からの引用です。「これはゴジラをして水爆の恐ろしさを広く知らせる風刺映画であるとの解説の後、撮影にかかった。本校生徒出演は人々の永遠の平和への願いを女学生が”平和の歌“にたくして合唱する部分であり、又初めてのことでもあるので、むれるような暑さの講堂は、終始緊張した空気にみちていた。(やまみず34号1954年10月13日)」(続く)
ギター部・音楽部合唱班 校内クリスマスコンサート
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12月22日(金)に、ギター部と音楽部合唱班合同で校内演奏会を開催しました。ポップスからスタンダードナンバーまで、古今東西のクリスマスソングを披露し、来場した多くの生徒のみなさんにひと足早いクリスマスプレゼントを届けました。初めての合同イベントでしたが、是非次回は合奏にもチャレンジできればと思います!
ボランティアグループ「空」の活動報告
- 全校
ボランティアグループ「空」の活動で、調布よさこい2023に参加させていただきました。当日は、調布美術研究所さん主催の鳴子絵付け体験のお手伝いをいたしました。多くのお子様や保護者の方と関わりながら、楽しい時間を過ごしました。
第5回高校生親善訪中研修②
- 全校
5泊6日の訪中研修団、後半の様子です。その後のプログラムは、放送局の中央広播電視総台(CMG)訪問、故宮博物院や頤和園の見学、北京大学日本語学部の学生さんや北京大学付属高等部の生徒さんとの交流、京劇の鑑賞、日本大使館の表敬訪問、文化体験などでした。5日目の夕食後には「研修での学び」を共有するために、学校ごとに発表する形で「まとめの会」が催されました。中国の友だちとの出会い、そして参加の8校の仲間との出会い。また、参加者にとって「百聞は一見に如かず」を実感した6日間となりました。企画いただき、研修に随行いただいた中国教育国際交流協会の皆様はじめ、関係の皆様のご尽力のおかげで実り多き研修旅行になりました。ありがとうございました。
第5回高校生親善訪中研修団①
- 全校
第5回高校生親善訪中研修団(主催:駐日中国大使館教育処、実施:一社 日中国際交流協会)に本校の生徒4名が参加しています。5泊6日、北京に滞在し、研修内容は世界遺産見学、現地の高校生や大学生との交流、芸術鑑賞など充実のプログラムです。まずは「雑技」鑑賞、高校訪問、八達嶺(万里の長城)、天壇公園の見学などの様子を紹介いたします。
ニュージーランド・ターム留学プログラム 後半に入っています
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今年度、4年ぶりに再開されたニュージーランド・ターム留学プログラム。現在8人の高校2年生がニュージーランド各地で学んでいます。プログラムも後半に入り、それぞれに留学先での学校生活を楽しんでいるようです。
桐朋生が学ぶ現地校には留学生をしっかりサポートしてくださる担当の先生がいます。それ以外にも、日本語で相談することができるアドバイザーが定期的に面談をして、相談に乗ってくださいます。
現地校の制服で、すっかりニュージーランドの高校生になっている人もいれば、ニュージーランドでも桐朋女子の制服を着て、しっかりアピールしてくれている(?)人もいます。帰国後に留学生の皆さんのお話を聞くのが、今から楽しみです。