桐朋女子ピックアップ一覧
中3白 応援練習が始まりました
- 中3
高3黄色 新しい生活が始まりました
- 高3
ソフトボール部 春合宿
- 部活動
桐朋高校との合同企画「夢対決 桐朋のスポーツ王は俺、私だ!」
- 生徒会
3/20(水・祝)に桐朋高校男子部との合同企画としてスポーツ大会を行いました。この企画は高校議会・高校執行部と男子部の生徒会が協力して企画したものです。行ったのはボッチャ・シッティングバレーボール・ドッチビーの3種目です。男女混合の3チームに分かれ、桐朋のスポーツ王の座を競いました。すべての競技を終えた後、最後は全員参加のドッジボールで親交を深めました。以下、中心になって企画・運営を担当した3人の生徒の感想を紹介します!
「準備ではスムーズに進まないことも多くありましたが、当日は参加者の皆さんにも楽しんでもらえたようでとても良かったです。桐朋学園の交流会としては初めての運動系のものでしたが、身体を動かしながら交流することで自然と会話が生まれたのではないかと感じました。学年や学校の境目を超えて今後も交流が続いていくことを願っています。」
「体育館に集合した時はお互いにぎこちなく、会話もほとんどありませんでしたが、競技をしていく中で会話が増え、終わる頃にはとても良い雰囲気になったと思います。今回行ったのはパラリンピックで行われるようなマイナースポーツで、特にボッチャはルールが難しいからこそ、メンバー同士の会話が生まれたのではないかなと思いました。参加した人も運営の人も、良い刺激を受けた1日でした!」
「最初は緊張した雰囲気でしたが、ゲームを進めるにつれて打ち解けて、作戦会議をしたりフリスビーの投げ方を教え合ったりして親交が深まっていく参加者の姿が印象的でした。ルール確認や審判、出欠確認、誘導、人数調整等を男子部の方と協力してスムーズに行うことができたと感じました。普段は中々関わる機会のない女子部と男子部ですが、マイナースポーツを通して親交を深めることができる企画となりました。」
新体操部 春合宿
- 部活動
写真部春季校外合宿 日光へ
- 部活動
ギター部春合宿
- 部活動
津田塾大学と高大連携協定を締結しました
- 全校
3月13日(水)、津田塾大学において、桐朋女子中・高等学校は津田塾大学(学長:髙橋裕子/東京都小平市)と高大連携に関する協定を締結しました。本協定に基づき、両校はお互いが求める学生像および教育内容への理解を深め、両校の発展を図ってまいります。
締結式には、津田塾大学より髙橋学長、小舘副学長、早川副学長、斉藤事務局長、五十嵐経営企画課長そして同課伊藤さんが出席され、桐朋女子からは校長と進路指導部主任が出席しました。締結式では、協定書への署名、写真撮影の後、和やかな雰囲気の中で意見交換等を行い、最後に学校内をご案内いただきました。緑が多い落ち着いたキャンパスで、キャンパスの最深部には創立者の津田梅子先生のお墓もあり、お参りしてきました。
今後、両校でできることを模索し、進めていければと考えています。
これにより、先に協定を結んでいた東京女子大学、日本女子大学、国立電気通信大学を含め、4大学と連携協定を結んだことになります。
ゴジラ 第一作(1954(昭和29)年)と桐朋女子―「平和への祈り」をめぐってー補遺(2)
- 全校
2024年3月12日投稿、同タイトル補遺(1)以後の続きです。
年末年始の記事をご覧いただいた方々から幾つか反応を頂いています。本校の先輩教員である村田洋先生(元中高社会科教諭)からも情報提供を頂きました。この機に最新のUHD Blu-ray『ゴジラ』(初代)をご覧いただいてのご指摘ですが、シネフィルにして大講堂を知る先生ならではの知見が含まれます。補遺にふさわしい情報なので、村田先生のご了解のもと、以下に紹介します。
「平和への祈り」のシーンを解読する
①『ゴジラ』に「桐朋のクレジット」は出てきません。キャストやスタッフや協力者を網羅する現在のエンドクレジットの時代ではなかったということでしょう。
②大講堂のコーラスは、歌い始めではカメラを演壇上の下手に据えて、講堂内の一・二階の生徒の全景をとらえています。歌の途中で、一階下手側の床に降りているカメラが前から奥方向に移動撮影し、また演壇上のカットに戻ります。
③一階の生徒は一列20人で16列(画面の外に3列ほどはありそうなので、19列)、二階席は横45人程の列が4列並んでいます。これで合計560人ほどになります。
補足します。ご指摘にある同定人数ですが、卒業生名簿から推定される当時の在籍者数から当日の教務日誌に記録されている欠席者数を引いた人数とほぼ一致しています。これにより、560人から570人強という人数の合唱場面、と確定できます。巷に流れる様々な数字上の誤りをここで最終的に正しておきます。
④特典に「スタッフのインタビュー」があり、2000年11月の録画です。円谷英二(特技監督)、田中友幸(製作)、本田猪四郎(監督)、三縄一郎(録音)各氏がそれぞれのお仕事について語っていますが、伊福部氏は、合唱場面に関わることでは、概略次のように語っています。
a)桐朋音楽大学がやってくれるとなって、100名くらい使ってやりました。(注:→誤り)
b)お礼に鉛筆一本ということだったんじゃないかな。(注:→真偽不明)
c)たくさんで歌わないと悲劇の大きさがね、悲しいだけでは困ってしまうので、死んでもやってゆくという情感がないと困るので—。
d)学生全部使っていい、ということでそこ(学校)まで行ったのを覚えている。
e)(学生は)譜が読める人たちですから、すぐできました。(注:→誤り)
1914年生まれの作曲家は、インタビュー時は85歳の高齢で、加えて46年前の桐朋ロケの懐古なので勘違いも避けられません。この人は東京音楽大学長を務めた方ですから、「桐朋」と聞けば、「桐朋音大」と反射的に想起するのは当然かと思います。「(学生なので)譜が読めますから、すぐできました」とは思えません。普通科の生徒があらかじめ楽譜が渡されていて練習を終えていたのではないかと想像します。当時の桐朋生なら一時間ほどでできたでしょうし、とりわけ難しいことではなかったでしょう。昔の桐朋生はともかく合唱が好きだったようです。私はこのロケから15年後に桐朋にきたわけですが、初めて東北旅行を引率した時は、バス移動中はコーラスの場でもありました。旅行委員の他に、歌集委員がおり、歌集作りは大切な分担になっていました。今も同じでしょうか。
以下、補足します。当時の教務日誌を精査したところ、撮影に先立つ9月10日「第5限、高等科全生徒「平和の歌」を練習、講堂にて」とあり、事前の練習があったことが判明しました。昭和29年度の夏休み明け初日は9月6日でした。10月からは修学旅行、小旅行(遠足)、体育祭、文化祭といった行事が目白押しで、さぞや準備がたいへんだったかと推察されます。改めて、どのような形でロケ協力が実現したのか、知りたいところです。
桐朋女子高等学校音楽科の開校は昭和27(1952)年、第一期生の故 小澤征爾氏(音楽部門同窓会名誉会長、2月6日にご逝去)は当時、高校3年生でした。伊福部昭が桐朋に足を運んだのも開学したばかりの音楽科高校への関心があったからかもしれません。
ゴジラの襲撃による多くの負傷者が街中の地面に横たえられ治療を受けているシーンが続きますが、これは広島・長崎の原爆情景のティピカルなオマージュと私は受け取りました。原爆写真のほとんどはモノクロで、かつ「地面に横たわる」死者や負傷者が多数映っていますから、観客の少なからぬ人々が、まだ10年も経っていない原爆風景を思い出すのは当然です。
「平和への祈り」の合唱場面が、上記シーンと重なって展開することの映画史的な意義を改めてかみしめたいと思います。「戦争がなくならない限り、ゴジラは死なない」。山崎貴監督があるインタビューで語っていた言葉です。70年の時を超えた「平和への祈り」について、いつまでも語り継いでゆくことは、桐朋女子に身を置く者の大切な仕事です。
中学1年・2年 特別時間割合同企画
- 中1
- 中2